わすれみず

整理整頓 誰かに見守られたいこと

ひととなかよくできないこと

フラッシュバック的な、広義PTSDみたいな感じでしんどいが、思い出してしまったついでにわたしの根底にあるコンプレックス?を整理していこうと思う。



みんなとなかよくしましょう、って幼稚園とか小学校とかの先生が言ってた。

馬鹿だから(自閉症で字義通り受け取るタイプだから)ずっと真に受け続けたし、グループからハブられそうになる子にはわたしから声をかけてた、そうしなきゃいけないと思ってた。
おかげで中学では3年間学級委員だった。

学級委員なのにいじめられてた。


“いつメン”みたいなのがわたしにはいなかった。

みんなは特別な仲良し、特によく遊ぶ同性の友達グループみたいなのがいるのに、どうしてわたしにはいないんだろう?って、小6のときに初めて違和感を覚えた。


小4くらいから男子と女子とで精神年齢の開きがはっきりしてくる。わたしは急速におマセさんになっていく女の子たちには全然ついていけてなかったと思うし、そのときは別に気にしていなかった。

休み時間に女の子たちは外で遊ぶより教室でなにやらキャイキャイとおしゃべりに花を咲かせるようになり、誘ってもドッジボールや忍者ごっこをしてくれる子が急にいなくなった。

あと、なんでみんな友だちなのにいじめが起きるんだろう、そういうのを勉強したいって思うようになったのも小4。

男子のリーダー格の子がわたしを誘って入れてくれて、最初の方は女子が他にも数人混ざることがあった気がするんだけど、6年生のときにはもう男6女1くらいで遊んでることが増えた。

女子の一部に「男子にぶりっ子してる、キモい」って言われて仲間に入れてもらえないこともあったり、特定の一人の子がすごくわたしに執着?してわざわざ聞こえるように悪口言ってたりして幼いわたしはそれなりに傷ついていたが、母親も「あんたが大人になりなさい」ってとりあってくれなかったし、まあ男子が遊んでくれるからいいやって思うようにしていた。
そう思うしか自分を慰める方法がなかった。



中学、吹奏楽部に入った。大会を目指して朝練も土曜日も練習があるガチなところ。

思春期真っ只中の女子集団でわたしはびっくりするくらい馴染めなかった。
男子も思春期に入ったせいなのか、小6まで下の名前で呼んで遊んでくれていた人たちが名字にさん付けで呼んでくるようになった。

1年生の秋くらいまではまだボロが出てなかったのかバレなかったのか部活では比較的なかよくやれてたし、休みの日に何人かと遊びに行くとかもしてた。

冬以降はシンプルに地獄という感じ。


わたしがデリカシーのない発言、空気の読めない言動が多かったから、きっとみんな我慢の限界だったのだろう。

吹部の金管楽器というくくりで同学年はわたし入れて8人いて、他の楽器と線引して特別な絆?みたいなのがあるような雰囲気…うまく言葉に出来ないけどなんか多分仲良しグループになって当たり前、みたいな感じだったが、

そこで完全に無視されるようになった。
メインでいろいろ嫌だな〜ってことをしてきたのは2人。うちひとりは同じ楽器で特に一緒に練習するとかの時間が長かったし、信頼していた子だった。

話しかけても徹底して視線を合わせず一言も返してもらえない。どこで何時から練習って聞き逃したことを何度か粘って聞いたらめちゃくちゃ怒鳴られたことはあった。
呪いの手紙とかわけわからんものも下駄箱に入ってた。

2年生、夏大会が近くなってそんな状況。
クラスで授業開始のチャイムが鳴っても机に伏せて泣いてたら担任のおじさんに「なんだそんなことで」って言われて、じめじめ暑い日なのにひんやりした。もうクラスでも居場所はなかった。

リストカットを腱鞘炎になったときにもらったバンドで隠していた。



母親にお腹が痛いと嘘をついて学校を1日だけ休んだ。人生初の仮病にどきどきしたし、ふつうに昼過ぎにはバレて怒られた。
部長に3日間休みます、と伝えた。


部活に戻った日、部長に呼び出されて強制的に今無視をされていることについて話をした。

別の部屋ではほかの子たちが別の先輩たちと話をしていたらしく、教室を出たら主犯的な子のひとりがべそべそ泣きながらごめんねぇって抱きついてきた。

納得いかないような表情の子も中にはいた。
よくわかんなかったけど、もう疲れてしまっていたので、「今日からまた一緒に帰ったりできる?」とだけ確認した。

どうでもよかった。



それで全部がおしまいになった。

夏大会はわが部初の全国大会まですすんだ。


その後卒業までに8人でディズニーランドに行ったり、闇鍋パーティーをしたりした。


全部が気持ち悪かった。

そうやって卒業した。




「いじめをするのは馬鹿なやつだけ。馬鹿がいない高校に行けばいい」って言ってたのは担任だったか母親だったか。


今度こそという気持ちで地元で一番の女子校に入った。


思えばもうこの時点で双極性障害を発症していた。

高1、躁状態。楽しかったけど誰ともなかよくなれなかった。から回ってうまく喋れなかった。最初の頃は向こうから近づいてきたのにっていう子たちに進級が近づいた時期には睨まれたり避けられたりすることもあった。
同好会では楽しくやれてるつもりだったが、わたしを除いたライングループが作られていることを知ってどうでも良くなった。
靴下で隠せる足首をカッターで切っていたが、家でうっかり裸足でいたら母親に見つかって泣かれた。もうしない約束をさせられたその日のうちに太ももや肩のそばを切った。

高2、酷い鬱。思考がどんよりしていてうまく喋れなかった。まだ誰かと仲良くなりたいような、集団に馴染みたいような気持ちを持っていて、それが余計に苦しかった。
保健室やスクールカウンセラーに相談しに行ったが、カウンセラーは合わないなって思った。保健室の先生は度々気にかけて声をかけてくれた。

高3、心理士になるぞという意思でなんとか1年間自傷行為をしなかった。人と仲良くなろうとか馴染もうとかはあんまり思ってなかった。保健室や書道室にエスケープすることが増えた。


大学のサークルでもふつうに誰とも仲良くなれなかった。



ただ、心理学部に入ったおかげで小4のときから知りたかったいじめのことを知れた。



“いじめは虐めるほうが悪い、ただし、いじめられやすい要因というものが存在する。”

というのがわたしのなかの結論。






なんかもう飽きたから書くのやめる。

いじめはいじめられたわたしが悪いです。

祖母がしんだ日のこと


2月1日の昼頃、父方の祖母がしんだ。
わたしはバレンタインの期間限定のバイト中だった。

休憩時間に母親からの電話に折り返して、その事を知った。
数日前に主治医の先生は、あと2週間くらい、と言っていたのに。まだ1週間も経っていなかった。

母親に自宅待機を命じられ、同じくバイト中だった弟も後から帰ってきて、それぞれの部屋で連絡を待った。

暗くなってから、父親といとこの1人が車で私たちを迎えに来た。

車の中で祖母の最期のことを父親から聞いた。


ちょうど両親がお見舞いに行って、水を飲ませたり声をかけたりしていたときのことだったらしい。

肺がんが全身に転移していた祖母は、ほとんど会話できる状態ではなかったけど、お水いる?と聞けば「飲む」と言うし、寒い?と聞けば「寒くない」と答えられるくらいではあった。

異変に気づいたのは母で、喉に絡んだ痰が飲み込めず苦しそうにしているのを見てナースコールをした。
すぐに来た看護師さんが吸引する機械を使ったが、喉からの出血が止まらなかった。
祖母につけられていた機械の数値がどんどん下がっていった。

(誰も明確に言わなかったけど、この時の看護師さんの処置のせいでは、という空気があった。その看護師さんの不注意で祖母の首が閉まってたことがあったので。でも誰も何も責めることは無かった。)

主治医の先生が駆けつけてすぐに診てくれたが、どうにもならなかった。

父親は部屋の外で親戚たちに電話をかけていた。
母親は祖母の手を握って、すぐみんな来るから待ってて、がんばってと声をかけ続けていた。


父親は「ばあちゃんよくがんばったよ」と言った。
わたしは泣き顔を見られたくなくて窓の外を見るしかできなかった。


祖母の家に着くと、慣れないお線香の匂いがした。

お腹の上に守り刀を置かれた祖母が横たわっていた。
祖母の顔はいつもより黄色っぽく見えた。


母親に促されて祖母の頭を撫でたり、手を軽く握ったりした。

叔母やいとこたち、みんなが「寝てるだけみたいね」と話しているのがかなしかった。
わたしには、人の形をしたモノがそこにあるような感じがした。

なんとなく、しんだ人の体はかたくなると思い込んでたから、手は開くしとても柔らかかったことに驚いた。

柔らかかったのにあったかくなかった。
お見舞いに行った時はいつも泣きそうになるのを我慢して、あんまり手を握るとかしなかった。それをとても後悔した。


......2月2日の日記にここまでしか書かなかったから、この後何を話して自宅へ帰ったかなどは覚えてない。

2月2日は父親とライブに行く約束をしていたけど、さすがに無理だろうと思った。
なのに父親は行くに決まってるだろ、と言った。

祖母のお見舞いに行く時に車でいつも流していた曲が歌われたとき、泣きそうだったと後から聞いた。

でも、父親が涙を流したところを、今日まで1回も見ていない。


祖母は3ヶ月も1人で病院にいて、がんであることも知らされず、日に日に動けなくなっていって、自由にできないことが多くて、怖かったんじゃないかなと思う。
リハビリも、嫌いな食事も、本当に祖母はがんばったと思う。

いとこのいちばん下の子をよろしくね、と頼まれてる。唯一の約束だから、ちゃんと守るつもりだ。




祖母と仲が悪かった母親から祖母に関する話を聞くことに耐えられない。
しんだ後すぐに聞かされた昔の話や母自身の気持ちも、わたしは受け止めたふりをするだけで精一杯だった。

わたしの大切な祖母のことを、あのババア、なんて呼ばないで。